自己犠牲②

さて、前回「自己犠牲」の記事で自分を一番に愛するようにと、お話をしました。

では、なぜ「自己犠牲」が「美徳」とされてきたのか。

今回はその本質と問題点について深掘りしたいと思います。

◎そもそも「自分が一番大事である」という前提があって始めて自己犠牲は美徳となる

これが結論です。

自分という、大事に大事に大事にしている命があります。

その大事な大事な大事な命を、他人の命を救う為に、やむを得ず、どうしようもなく、致し方なく、本当は嫌だけど、それでもそれしか方法が無いから、苦肉の策として、命を差し出す。

こういう、極限の葛藤、本当に大事にしていて、絶対に差し出したくないものだけれでも、それでも相手の為なら…と思って差し出すからこそ、美徳たり得るのです。

これが真実です。この場合は、美徳と言って差し支えないかと思います。(かといって、それが絶対に正しいとか、それができるから偉いとか、素晴らしいとか、そういうつもりは全くありません。ここは注意が必要です)

しかし…現実はどうでしょう?

「自己犠牲は美徳だから」という理由で。

自分自身を、蔑ろにしてしまっていませんか?

…蔑ろにしてしまっているのであれば、それは自分の命を大事にしていない、という事になります。

自分の命を大事にせず、粗雑に扱っている。

仮にその命を差し出したところで。

「大事にしていないから、簡単に差し出す事ができたんだな」

となるだけで。

美徳には、なり得ないのです。

ですので、いっその事、「自己犠牲は美徳だ」という考えは捨ててしまいましょう。

どうしようもない結果として自己犠牲があり、その結果美徳となるだけで。

自ら進んで目指すようなものでは無いのです。

そもそも、本当に自己犠牲は美徳なのでしょうか?

自分自身も救えてこそ、真の美徳と言えるのではないでしょうか?

…現代における「自己犠牲は美徳だ」という言葉は。

「自分を大事にしない人間は立派だ」と、ほぼ同義です。

考えるまでもなく、おかしいでしょう?

他人をコントロールする為に都合よく使われているのが「自己犠牲は美徳だ」という言葉、概念だと感じています。(「社会の為に」も、そうでしょう?)

これらの言葉には、十分に注意されてください。

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